【 研究目的 】
東アジアで開始された木版印刷とその出版は、東アジア各国の人々の知識の獲得、伝達、そして文化の構築に重大な役割を果たした。とりわけ、東アジア社会文化の中核をなした中国では、印刷と出版そのものに立脚する科挙社会が成立した。漢字文化、或いは、儒教文化など、東アジア諸国を貫く文化構成も、写本そして写本を底本とした出版文化によって支えられていたのである。古代社会から中世社会への転換が、紙の普及とそれに拠る写本文化によって果たされたと見るならば、近世社会から近代社会への進展は木版及び最末期に導入された西欧式の活字技術文化によって開かれ、今日に到ったと言えるかもしれない。つまり近世社会の形成は、木版による出版文化と密接な関係があり、印刷を核とする出版文化こそ近世東アジア社会分析に有力なキーワードではなかったか。そして、今日東アジア社会を含む世界は、活字文化・印刷文化そのものとは発想の異なるアナログ、デジタル電子式文化へと変容の時代に直面している。つまり過去1000年単位の木版技術を中心とした出版文化は、近世近代の東アジア社会成立に不可欠な情報伝達システムにおいて、決定的な役割を演じていたことになる。
(b)研究すべき問題点
中世から近世にかけて、東アジア社会は独自の文化を構成し、ヨーロッパ文化、イスラム文化を総体的に超える力量があった。しかし、印刷文化の発達が、東アジアに比して比較的遅いヨーロッパ社会は、伝統的な文献学の蓄積及び図書館・神学校という文化保持・教育・伝達システムを、新たに導入された印刷技術と直結し、出版文化を基盤とした知識優先の体制と都市の「自由社会」を生み出し、急速に社会体制の進歩を果たした。これに対し、木版印刷を基底に据え、知識優先を旗印にかかげた東アジア社会は、印刷文化の発展が遅い日本を除けば、知識人の養成と知識獲得という点で文化国家を先進的に推進しうる状況にあったにもかかわらず、近代社会の幕開けを自らの手で行うことが叶わなかった。巨視的に見るならば、構造的に同じ印刷文化による知識の普及という社会体制にあって、何故、中国・朝鮮・日本はヨーロッパ諸国と異なる歩みを示したのか、という問題が提起される。また、同じ印刷文化を共有した東アジア社会が、異なった歩み示したのには、知識伝達システムにその一因があったのではないか、という疑問、或いは、出版の歴史そのものに社会構造が関係し、国情の差を拡げて行ったのではないか、などという想定もなされる。社会構造や文化の研究をめぐって、様々な要素が考えられる中で、印刷文化と社会との関係は多角的方面から分析しなければならないテーマであろう。
(c)本研究の目標
本研究は、東アジア世界、とりわけ印刷文化の影響下に漢字文化、儒教文化を生み出した中国、朝鮮、日本を中心とした地域における、近世から近現代に到る1000年間の木版技術を主とする出版、それを支える作家・作品・出版者・書肆、或いは、為政者の言論政策なども含め、一つの大きな文化――出版文化――として捉え、地域社会の構成や社会変革の歴史などといかなる関係にあったのか、印刷物の役割が単に知識の伝達に止まっていたのか、写本から印刷という技術の転換は社会に何をもたらしたのか、そして印刷から電子媒体による記録・伝達への技術の革新は、今日の社会をいかに変え、将来の社会に何をもたらすかなどを、分析して解明し、近世から近代文化・社会、近代から現代、そして将来の文化・社会へと到る流れを出版という情報伝達システムに着目して具体的な形で考えようとするものである。同時に、東アジアでは社会における位置づけが欧米ほど重視されていない図書館の役割とそのシステムについて、その望ましいあり方などについても考究する。
平成15年度〜16年度
@A 本領域研究の目的及び総括班の目的 本領域研究は、東アジア世界、とりわけ印刷文化の影響下に漢字文化、儒教文化を生み出した中国、朝鮮、日本を中心とした地域における、近世から近現代に到る1000年間の木版技術を主とする出版、それを支える作家・作品・出版元・書肆、或は、為政者の言論政策なども含め、一つの大きな文化――出版文化――として捉え、領域全体研究及び、計画・公募研究双方を通して、その文化が地域社会の構成や社会変革の歴史などといかなる関係にあったのか、印刷物の役割が単に知識の伝達に止まっていたのか、写本から印刷という技術の転換は社会に何をもたらしたのか、そして印刷から電子媒体による記録・伝達への技術の革新は、今日の社会をいかに変え、将来の社会に何をもたらすかなどを、分析して解明する。領域研究全体の成果としては、以下の4点を最小限取りまとめる。 @)東アジア新文献学事典の編集と出版・電子ブック作成、 A)主要な典籍の提要作成、 B)新発見の典籍の複製作成と保存、 C)日本国内の未整理の漢籍調査と目録の作成 この成果を基盤として、「東アジア出版文化」の研究を核とする新文献学を独立した学問領域に仕上げ、その視点から東アジア世界の変革と将来の変貌を解析することを窮極の目標としている。 領域研究の主体は調整班という組織内に所属する計画研究及び公募研究にあるが、その領域目標達成のため、研究推進運営の基幹組織として総括班を設けている。総括班の役割は、調整班の研究全体が順調に進み、相互の結束が十分なされるようにする点にある。そのため、総括班を介して外部評価の立場からの評価委員会、研究をバックアップするための研究顧問や研究協力者を別に配置し、それぞれの役割が果たされるよう努める。領域の研究が進行し、多様な活動が始まって以来、領域で刊行する東アジア善本叢刊などの選定を担当する出版委員会、ニューズレターの編集を主に担当する広報委員会がある。広報委員会は主にニューズレター作成を担当し、情報や資料を選定した後、その編集を担当し、広報活動をより活発化させる。一方、ホームページを通して新情報の提供に努め、領域の目標が達成するようにする。 B 本領域研究の独創性は、従来の研究分野にはなかった近世から近代文化・社会、近代から現代、そして将来の文化・社会へと到る変革のあり様を出版という情報伝達システムに着目し、出版システムを核とした文化論から具体的な形で考えようとする点にある。しかし、独創的な分野には、先例たる方法がない。調整班に所属する研究者が単独に行動していては、いかなる独創性も抽象的なものとなってしまう。そのコロイド状の研究をまとめて確固たる成果を導くため、調整班代表全員を取り込んだ総括班が統率する多様な組織(研究協力・顧問,評価委員会,出版・広報委員会,外国研究協力チーム)を構成し、領域目標の達成にとって有為な働きを果たすようにする。 C 13年度・14年度に総括班と調整班個別研究とで進めて来た領域研究を、目標に沿ってまとめる役割を総括班が主体となって平成15年・16年度は進める。とりわけ、領域の目標の(@)(A)を具体的成果とするために、総括班直属の (@)東アジア新資料学事典作成プロジェクト (A)東アジア善本・底本選定研究プロジェクト 及び東アジア善本・底本調査隊を結成しつつ、順次調整班における成果も吸収し、具体的に目標をとりまとめて行く作業を指導する。 D 本研究領域は学問体系の基盤として必要な部門であるにもかかわらず、独自の学問体系と認知されずにきている。かつての重点領域研究「人文科学とコンピュータ」(平成7年度〜平成10年度)及び特定領域研究(A)「古典学の再構築」(平成10年度〜平成14年度)は人文学の発展を進めようとする画期的なものであるが、東アジアの木版印刷を中心とした文化構造分析には及ばない。我々は、歴代の東アジアの文献、とりわけ版本を中心とした文化財的文献を多数擁して、国際学界をリードして来た東アジア研究の更なるレベルアップを図るべく、本研究では上記の重点・特定の両研究領域の推進した人文学の基本的かつ近現代・将来的展望を拓く重厚な業績を継承しつつ、一方で個々の文献の価値・位置を文化論を考慮した書誌学的に把握して、東アジア古典の受容史、或はそのものを文化史の証拠として、出版文化の中で刊行された出版物を広く社会文化との係合いから見極めようとする。 本研究領域全体の進行を円滑に進め、かつその評価及び総括を適正に図るために、当総括班の活動は、調整班の活動とともに研究全体をまとめて行く上での不可欠の存在となっている。
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